ニュートンの法則も市場では通用せず? – 天才科学者が南海泡沫で犯した致命的ミス

伝説

天体の動きは計算できるが、人々の狂気は計算できない

この言葉を残したのは、近代科学の父であり、万有引力の法則を発見したサー・アイザック・ニュートン(1642-1727)その人である。人類史上最高の知性と称えられる彼が、なぜこのような言葉を漏らしたのか。それは、彼自身が18世紀初頭のイギリスを席巻した史上空前の投機バブル「南海泡沫事件」に巻き込まれ、莫大な資産を失ったからに他ならない。

ニュートンは、光のスペクトル分析、微分積分学の創設、そして古典力学の体系化と、科学史に不滅の金字塔を打ち立てた。その合理性と論理的思考は、自然界のあらゆる現象を解き明かす鍵であった。さらに、彼のキャリアは純粋な学問の世界に留まらない。人生の後半期にはイギリス王立造幣局長官という要職に就き、通貨偽造の撲滅や国家財政の安定に辣腕を振るった、いわば金融経済のプロフェッショナルでもあった。

しかし、そんなニュートンでさえ、ひとたび市場という巨大な渦に足を踏み入れたとき、自らが発見した法則のごとく冷静かつ客観的に振る舞うことはできなかった。本稿では、天才科学者ニュートンがなぜ南海泡沫事件で致命的な判断ミスを犯したのか、その経緯をたどりながら、300年の時を経ても変わらない「相場と感情」の本質に迫る。彼の失敗は、我々現代の投資家にとって、最高のケーススタディであり、痛烈な教訓となるだろう。

第1章:南海泡沫事件とは何か? – 国家を巻き込んだ壮大な熱狂

南海泡沫事件を理解するには、まずその背景を知る必要がある。18世紀初頭のイギリスは、スペイン継承戦争などで巨額の戦費を抱え、深刻な財政難に陥っていた。この国家債務の整理という壮大な目的のために、1711年に設立されたのが「南海会社(The South Sea Company)」である。

南海会社には、南米大陸との奴隷貿易をはじめとする貿易独占権が与えられた。この「南米との貿易で莫大な利益が上がる」という触れ込みが、人々の射幸心を煽った。政府は、国民が保有する国債を南海会社の株式に転換させる計画を立てる。国債という「固定金利の退屈な資産」を、未来の大きな利益が期待できる「夢の株式」に変えましょう、というわけだ。

この計画は、ある「仕掛け」によって熱狂を生み出した。国債と株式の交換は時価で行われるため、南海会社の株価が上がれば上がるほど、少ない株式で多くの国債を引き受けることができ、会社の利益(差益)が膨らむ。そして、その利益期待がさらに株価を押し上げるという、自己増殖的なサイクルが生まれたのだ。

1720年の年明け、100ポンド強で取引されていた南海株は、堰を切ったように急騰を始める。

  • 1月: 128ポンド
  • 3月: 330ポンド
  • 5月: 550ポンド
  • 6月: 890ポンド
  • 8月初頭: 1000ポンド超

わずか半年あまりで株価は約8倍にまで膨れ上がった。この熱狂は、貴族や政治家から商人、一般市民に至るまで、あらゆる階層を巻き込んでいく。ロンドンのコーヒーハウスは昼夜を問わず投機家たちの熱気に包まれ、「一攫千金」を夢見る人々で溢れかえった。

この異常なブームに便乗し、「永久機関の開発」「ロバからの金銀抽出」といった、今では到底信じがたいような事業計画を掲げる会社が乱立。これらの実態のない会社は「泡沫会社(バブル・カンパニー)」と呼ばれ、南海泡沫事件、そして現代にまで続く「バブル経済」という言葉の語源となったのである。

第2章:天才の判断ミス – ニュートンの投資行動とその心理

さて、この歴史的な狂乱相場に、ニュートンはどのように関わったのだろうか。彼の投資行動は、まさに人間の感情的な弱点を体現するものであった。

第一段階:冷静な判断と利益確定

ニュートンは、南海会社の将来性を見抜き、比較的早い段階で投資を行っていた。王立造幣局長官として国家財政に関わっていた彼は、この計画の持つポテンシャルとリスクを、誰よりも理解できる立場にあったはずだ

1720年の春、株価が急騰し市場が過熱し始めると、ニュートンは冷静に状況を判断する。彼は「この熱狂は長くは続かない」と見抜き、保有していた株式を売却。これにより、彼は約7,000ポンド(現在の価値で数億円に相当)という巨額の利益を確定させることに成功した。ここまでの行動は、まさに天才科学者、そして金融のプロフェッショナルにふさわしい、理性的で模範的な投資であったと言えるだろう。

第二段階:FOMO(取り残される恐怖)と高値掴み

しかし、物語はここで終わらなかった。ニュートンが市場から降りた後も、南海株の上昇は止まらなかった。それどころか、彼の売却後、株価はさらに倍以上に高騰し、1000ポンドの大台を突破したのである。

友人や知人たちが日に日に資産を増やしていくのを横目に、ニュートンは日に日に焦燥感に駆られていった。

「自分はあまりに早く売りすぎたのではないか?」

「この歴史的な儲けの機会を逃してしまうのか?」

この感情は、現代の投資用語でいう「FOMO(Fear Of Missing Out:取り残されることへの恐怖)」そのものである。

合理的な思考は、集団的な熱狂の前では無力だった。1720年の夏、ニュートンはついに我慢できなくなり、再び市場に参入する。しかも、以前に売却した価格の3倍以上という、まさに天井圏の価格で、以前よりはるかに多くの資金を投じてしまったのだ。

第三段階:パニックと破滅的な損失

ニュートンが再び南海株に飛びついたその時が、まさにバブルの頂点であった。政府が乱立する泡沫会社を規制するため「泡沫会社禁止法(Bubble Act)」を可決したことなどをきっかけに、熱狂は急速に冷めていく。信頼という名の風船が一度しぼみ始めると、その勢いを止めることはできない。

株価は暴落に転じた。8月に1000ポンドを超えていた株価は、9月末には300ポンド台へ、そして年末には124ポンドと、元の水準にまで叩き落された。

高値で再参入したニュートンは、逃げる間もなく暴落に巻き込まれた。一説によれば、彼は下落局面で「ナンピン買い(価格が下がった株を買い増し、平均取得単価を下げる手法)」まで試みたという。しかし、底なしの暴落の前では、それも傷口を広げるだけの結果に終わった。

最終的に、ニュートンがこの南海泡沫事件で失った資産は、2万ポンドにのぼると言われている。これは、現在の価値に換算すると数十億円とも言われる、まさに破滅的な損失であった。最初の投資で得た利益をすべて吐き出した上に、取り返しのつかないほどの巨額の富を失ったのである。この苦い経験の後、彼は二度と自分の前で「南海」という言葉を口にすることを許さなかったという。

第3章:なぜ天才は敗れたのか? – 教訓と現代への警鐘

万有引力の法則を発見し、天体の運行をミリ単位で計算できたニュートンが、なぜ市場の動きを読み間違えたのか。彼の失敗は、我々にいくつかの普遍的な教訓を与えてくれる。

1. 知性と投資の成功は別物である

ニュートンの事例が示す最も重要な教訓は、高い知能指数(IQ)や専門知識が、必ずしも投資の成功を保証しないということだ。市場は物理法則のように単純な数式で動いているわけではない。そこには、人々の欲望、恐怖、嫉妬、希望といった、計算不可能な「感情」が複雑に絡み合っている。ニュートンは、自らが「狂気」と呼んだこの人間心理の引力に、抗うことができなかった。

2. FOMO(取り残される恐怖)の絶大な力

一度は合理的に利益確定できたニュートンを、再び危険な市場へと引きずり込んだのは、周囲の成功から取り残されることへの恐怖だった。他人が儲けているという話は、どんな巧みなセールストークよりも強力な引力を持つ。この集団心理の波に乗り遅れまいとする焦りが、冷静な判断力をいかに麻痺させるか。彼の失敗は、その恐ろしさを如実に物語っている。

3. プロセスの重要性 – 一貫したルールの不在

最初のニュートンの行動は、「安く買い、高くなったら売る」という投資の原則に忠実だった。しかし、二度目の投資ではそのプロセスは完全に崩壊していた。「周りが儲けているから」という感情的な理由だけで、彼は天井圏での高値掴みという最も避けるべき行動に出てしまった。これは、自分自身で定めた投資ルールや哲学を持つことの重要性を教えてくれる。感情に流されそうになった時、立ち返るべき自分自身の「錨」がなければ、市場という嵐に容易に飲み込まれてしまう。

結論:300年後も変わらない市場との向き合い方

サー・アイザック・ニュートンの悲劇は、単なる歴史上の一逸話ではない。それは、テクノロジーがどれだけ進化し、金融工学がどれだけ洗練されても、市場を動かす根源的な力は「人間の感情」であるという、時代を超えた真理を我々に突きつけている。

仮想通貨の熱狂、ITバブル、あるいは近年のミーム株騒動。形を変え、時代を変え、南海泡沫事件と同じような熱狂と崩壊のドラマは、繰り返し演じられてきた。そのたびに、多くの人々が「今回は違う」と信じ、そしてニュートンと同じように市場の狂気に翻弄されてきた。

我々がニュートンの失敗から学ぶべきは、市場を完璧に予測しようとすることの無意味さではない。そうではなく、自分自身の「感情」という、最も扱いにくい変数をいかにコントロールするか、ということだ。なぜ投資をするのかという目的を明確にし、自分なりのルールを定め、市場の熱狂からは一歩距離を置く冷静さを保つ。

物理法則を発見した天才でさえ打ち破れなかった「感情の引力」。その存在を自覚し、謙虚に向き合うことこそが、変化の激しい現代の市場を生き抜くための、最も確かな羅針盤となるはずだ。

ニュートンが残した冒頭の言葉は、すべての投資家が胸に刻むべき、300年の重みを持つ警句なのではないだろうか?

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